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丹下健三 TANGE KENZO

  • 作成言語: 日本語
  • 基準国家: すべての国家country-flag
  • その他

作成: 2025-05-06

作成: 2025-05-06 18:00

丹下健三 TANGE KENZO


香川県庁舎 1958年 香川県高松市

国立代々木競技場第一・第二体育館 1964年 東京都渋谷区

日本万国博覧会会場基幹施設計画・お祭り広場 1970年 大阪府吹田市

東京都庁舎 1991年 東京都新宿区

国際連合大学 1992年 東京都渋谷区

フジテレビ本社ビル 1996年 東京都港区

新香川県庁舎 2000年 香川県高松市

東京ドームホテル 2000年 東京都文京区

東京プリンスホテルパークタワー 2005年(現・ザ・プリンス・パークタワー東京) 東京都港区


1939年(昭和14年)、丹下は雑誌『現代建築』に論文「ミケランジェロ頌-ル・コルビュジエ論への序説として-」[注 2]を発表し、つづく1941年(昭和16年)に前川国男建築設計事務所で岸記念体育会館[注 3]の設計を担当したが、その名が一躍世に知られるようになったのは、1942年(昭和17年)の大東亜建設記念営造計画[注 4]コンペと、それに立て続いて1等入選を果たした、1943年(昭和18年)の在盤谷日本文化会館計画コンペによってである。


同時期、第二次世界大戦後の日本建築界の幕開けを告げる、当時日本最大級のコンペであった世界平和記念聖堂の建築競技設計でも衆目を集めるが、施主であるカトリック教会が、丹下案と類似するオスカー・ニーマイヤー設計のブラジル・パンプーリャのサン・フランシスコ礼拝堂に見られる放物線状のシェル構造が持つ、その非宗教伝統的な形体と音響の悪さを嫌って、丹下案は不採用(1等なしの2等当選)となった。後にその実施は、コンペの審査委員の一人で、コルビュジエ派である丹下案を酷評した表現派の村野藤吾が担当することになり、日本建築界の一大スキャンダルとなる[注 7]。


また、丹下はこの事業にイサム・ノグチを強く推して参加させたが、当時建設省の広島平和記念都市建設専門委員会委員長であり、また丹下の恩師でもあった岸田日出刀の「原爆を落とした当のアメリカ人の手になるもので、爆死者の慰霊になるのか」という強い反対意見により、慰霊碑はノグチのデザインが却下され、丹下自身が担当することになった[19]。


1970年(昭和45年)の大阪万博では、京都大学教授の西山夘三と共に総合プロデューサーをつとめ、その中心施設であるお祭り広場の設計も手がけた。「大屋根」をジャッキによる先駆的なリフトアップ工法で持ち上げ、それを太陽の塔が突き破ってそそり立つという岡本太郎とのコラボレーションは、今日に至るまでの語り草になっている。


建築のスタイルは本来モダニズム系統であり当初はポストモダン建築を単なる意匠だと批判していたが、晩年にはポストモダンの傾向も取り入れた東京都庁や日光東照宮客殿・新社務所などの作品もある。最後の大作である東京都新庁舎は、ゴシック建築であるパリのノートルダム大聖堂の双塔の形態を引用するとともに、外壁面を複雑に凹凸させて陰影を深くし、さらに外壁PC板に濃淡二種類の花崗岩を打ち込むことによって、フェイクではあるが一見窓のようにも見せ、実際の窓枠よりもさらに細かく割るデザイン処理によって重厚さ[注 15]を演出した。丹下自身の言によれば、格子戸を思わせるデザインで和風を感じさせると同時に、情報化時代をIC(集積回路)のグリッドパターンで象徴させた所にポストモダン性があるとしている[25]。





日本の近代建築は、第二次世界大戦前においても西洋先進諸国と遜色ないレベルに達していたが、丹下の東京オリンピック国立屋内総合競技場(代々木体育館)によって初めて、明確に世界のトップレベルに引き上げられたと言ってよい[26]。 それ以後、日本建築界が非西洋諸国の枠を超えて、質・量ともに世界の建築界の中でも傑出した地位を築く道を、後進へと開いたと言える。第二次世界大戦後の日本建築界の重鎮であり、昭和という時代の国家的プロジェクトを背負い続けた建築家であるが、高度成長が終わり開発が一段落した大阪万博以降、その活躍の場は必然的に中東やアフリカ、また東南アジアの発展途上国に移っていった。唯一とも言える例外はイタリアである。


東京都庁舎(新都庁舎、1991年竣工)では指名コンペが行われたが、大方の予想通りに、当時の都知事・鈴木俊一との強いつながりを持つ丹下の設計案が当選し、「出来レース」とも評された[29][30]。 鈴木とのつながりは[注 16]、鈴木が1964年東京オリンピックの準備のために、地方自治庁(後の自治省。現・総務省)から東京都副知事に出向したことにさかのぼり、その後鈴木が大阪万博の事務局長に就任した経緯もあって、のちに鈴木が都知事選に初出馬した際には、丹下はその後援団体「マイタウンと呼べる東京をつくる会」の会長をつとめている。建築関係者からは、「自身のスタイル・信条であったはずのモダニズムを捨て、かつて出口なしとまで批判したポストモダニズムにすり寄り、大衆に媚を売ってまでコンペに勝ちたかったのか」とか、「すでにある新宿の超高層ビル群に最も高いビルを加えただけであり、目新しいアイデアがない」などの意の厳しい批判を受けた[31][32][33]。


知られざる丹下健三──海外プロジェクト・都市計画を中心に


丹下健三 1938-1970 戦前からオリンピック・万博まで


丹下健三 1938-1970
戦前からオリンピック・万博まで
TANGE KENZO 1938-1970
From Pre-war period to Olympic Games and World Expo


この度、文化庁国立近現代建築資料館では「丹下健三 1938-1970 戦前からオリンピック・万博まで」を開催いたします。
 東京でオリンピック、パラリンピックが開催される2021年。振り返れば1964年の東京オリンピック、そして1970年日本万国博物館(大阪万博)が開催され、その双方で主導的な役割を果たしたのが建築家・丹下健三でした。文化庁国立近現代建築資料館では、2014~2016年の3年間にわたる建築家・丹下健三に関する建築資料の所在調査を活かし、丹下の卒業設計から東京オリンピック、大阪万博に至る足跡を辿る展覧会を企画いたしました。本展では広島平和記念公園及び記念館や国立代々木競技場などのナショナルプロジェクトや、これまで紹介されてこなかった自邸の増築案、構造資料といった建築資料を交えて丹下健三の前半生を回顧・検証します。



National Archives of Modern Architecture
国立近現代建築資料館

4 Chome-6-15 Yushima, Bunkyo City, Tokyo 113-0034, Japan



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2024年10月28日